きらきらしたものを集めたい。

主にジャニーズ、たまにアイドル。/絶賛事務所担進行形 → 主にK-POP、たまにジャニーズ、たまーーにアイドルへ移行→主にLDH、そこそこK-POP、たまにジャニーズ、ちょっと坂道に移行したみたい。。

"古い"と向き合っていくことについて。

ひとつ前のふわっと書いたエントリが思ったよりも共感を得ていて「やっぱり気になってる人多いんだな」って思ったので、もう少し自分自身の話を含めて具体的な話を残したいなということで。

ちょうど、すごくわかりやすい話を宇田丸さんがインタビューで話していたので引用して書いていく。

『軽いやらかしは……「毎日あります」』という見出しからのブロックから。

「良くないのは、やはり失言ですね。差別発言はさすがにしてないつもりですけど、『今の時代だったらこういう言い方するべきじゃなかった』とか『やな感じを出してしまった』ってことはあって。訂正してお詫びするほどのことは言わないように日々自らを戒めていますけど、なんか『こういう茶化しかたはしちゃいけなかったな』っていうのは、実は言った瞬間に思うんですよね。で、自分にがっかりしちゃう」

「心底、僕がそれを面白くないと思っていれば出てこない言葉なんですよ。そういう考え方を憎いと思っていればなおさら。だから、“気をつける”って言い方も本来は良くないと思ってて、『ちゃんとわかってるのか俺?』って思うんですよね。その急激な良い変化に対して、それはもうラジオとか関係なく、今を生きる人間として、当然誰もが心がけるべきことだと思ってます。そこで、ふと自分にがっかりする瞬間も残念ながらあって、それはもう反省と、自分なりのアップデートを繰り返すしかないなってことでもありますよね」

自分の場合、ちょっと前まで「ナルシズム」って言葉を好んで使っていて、それこそ「妖怪ナルシズムすすり」などと自称してみたり、アイドルに対して「ナルシズムが溢れていて最高」とかって言ってきたんだけど、本当に数ヵ月前にふと「いやナルシズムが~って楽しみ方、めちゃめちゃ凌辱的では?」って気がついてしまった。エロいとかっていう言葉以上に凌辱的に思えてしまった。自分でそう気づいてしまった以上はもうその言葉は使わないって箱のなかにしまった。でもこれまでブログでもそういう内容を書いてきたし、そういう言葉をたくさん使ってきたことは事実で、それを消していこうという気持ちではない。ただ、整理ができたらそういう内容を書いた記事を改めて別の表現で書き直したりはしたいと思う。

もう本当にこういう反省とアップデートを続けなきゃいけない。多分それが生きていく上で当たり前のことで、今の時代だから、ということではない。

 

差別的な表現というのは勿論だけど、フェミニズムとかホモソーシャルとかミソジニーとか、ジェンダー論とか、いろいろな言葉で今の在り方の問題について論じられるようになった。

ジャニーズは特に男性だけの組織であって、そこにはいわゆるホモソーシャルな強い"絆"があるわけだけど、そのなかで価値観を変えていこうというスタンスを自分達でもって発信もしているのがマリウスさんを筆頭としたSexy Zoneだと思う。でも、この前の配信でのライブを見ていて、すごく気になる演出もあって、「制服衣装のメンバーが白衣にメガネ姿の"女教師"的な衣装の女性へ各々のやり方でアプローチをする」という形。それ自体もう~んなんだけど、何よりその女性を見つけた時に全員が股間を抑えるというポーズを取ったことが、自分のなかで「完全にナシ」だった。菊池風磨さんから伝染していく形だったけど、乗り気ではなさそうながらマリウスさんもそれにのった。それがすごく悲しかった。Sexy Zoneであってもやっぱりホモソーシャルなんだよな、って思った。もし彼のなかで違和感がある演出であればそれを主張してほしかった。個人的に菊池風磨さんという人のことはすごく好きなんだけど、彼は健康的なホモソーシャル強者すぎるという印象がすごくて、彼の言動とか演出には若干それを強く感じてしまう怖さがある。

マリウスさんに大きなものを背負わせたいわけでも、Sexy Zoneを貶めたいわけではなくて、セクガルをセクラバにしたというジェンダー的な部分での意識改革を進めている彼らであっても、というのが直近で気になっただけのことなんだけど。

 

引用した宇田丸さんのインタビューは、ラジオについての話なので、「やっぱり“声”ってバレますよね。声は取り繕えないみたいなこともあるし。」という言葉もあるんだけど、ジャニーズにとってラジオっていうのも、自分達の言葉を自分達の声で発信するすごく大切なメディアであって、そこでの発言ももちろん大きなこと。

正直な話を書くと、ラジオでの淳太くんのものすごいミソジニー発言*1で私はこれまでのWESTのライブの演出に対してひんやりとした感情が生まれてしまった。そう見てる人があの"女子が喜ぶ"演出を作っている、というのはすごく興ざめしてしまうことだった。どれだけ苦労してつくっているとか、すごく考えてつくってくれているとか、それを分かっていてもひんやりとしてしまった。

自分でひんやりとしてしまったことにショックを受けてしまったけど、でもその自分の感覚を否定することはできなかった。昔の自分であれば気にならなかったことかもしれないけど、気になってしまうようになったことは悪い変化ではないはずだから。

 

もちろんこういうことを気にしていくだけ、ではなくて、という部分もこのインタビューですごく共感したので引用すると、

「要はその、“みんなが好きだから自分も好きにならなきゃ”って変な話じゃない? 自分が好きなものでいい。新しかろうが古かろうが、なにか自分がグッと来るものでいいんです。自分の中に面白さへの基準がないと、やっぱり人生むなしいですよ。それは結局、自分が心地よく生きるってことですから。自分は何が面白いと思うのか、何が心地よいと思うのか、何が美味しいと思うのかっていうのをもっとみんな意識化したほうがいいと思ってます。みんなそれを意識化しなさすぎる。だから、つまんなそうなんじゃないかって思います」

自分がブログを書く理由は、自分が感じた面白さとか感動とか違和感とかを自分で整理をしたくて、宇田丸さんの言葉でいう"意識化"ということをしたくて文字に残している。過去の自分の書いた言葉に「うわ…」と思う経験も古さと向き合う上で必要だと思ってる。Twitterは流れていくものだから、リアルタイムな言葉ではあるんだけどどうしても流れちゃう。ブログは自分にとってのアーカイブとして、固定しておきたい感情とかを書いている。

「みんなそれを意識化しなさすぎる。だから、つまんなそうなんじゃないかって思います」というところには意識化してる人も沢山いると思ってるので共感できないけど、意識化していくことで自分の中の基準ができるということはわかる。自分の基準で人の言葉を咀嚼できたら同調ではなくて共感になると思う。

書きたいことは山のようにあるのにうまい〆は浮かばないんだけど、いろんなものをいろんな意見を見て聞いて読んで、今の自分が面白いと感じるものは何か、今の自分が面白くないと感じるものは何か、理解できることは何か、理解できないことは何か、その整理をし続けていきたいな、と改めて感じられた言葉だったからまたこれをアーカイブとして残した。

*1:映画のレディースデイとか女性専用車両について「女性だけが得をしている」という発言