窮鼠の濡れ場について感じたいくつかのこと。
「窮鼠はチーズの夢を見る」の濡れ場について思うことを書きます。
全体についてはこちらで書いているので。
本当に「そういう話」しか書かないので、苦手な人は読んでほしくないし、映画を見てから読んでほしい。
基本的に、映画全体がかなりリアルな作りだなと思った。だからこそ、恭一と今ヶ瀬の濡れ場については、「ここだけはリアリティーがない」というのが正直な感想で。原作よりはリアリティーのあるものだとは思う。でも経験者の監修があったらもう少し表現が変わるんじゃないかな、と思った。男性同士の挿入を含めた性行為って、下準備が必要な行為だよね?というのがどうしてもある。下準備を映像化しろとは言わないけど、もう少し確認しながら進めていくような雰囲気だったり、たぶん、スムーズに進まない段階がある雰囲気が欲しかった。そういうリアリティーを作らないのであれば、あの長尺で濡れ場のシーンを作らなくてもいいと思う。その行為のシーンの時間を半分にして、前後のシーンの時間を増やせばいい。行為後の表情で伝わるものは十分伝わると思う。
個人的な願望だけど、映画などで濡れ場を描くならば「合意ある性行為についてはコンドームの使用を違和感なく描くべき」であってほしい。啓蒙のひとつとして、その描写を入れてほしい。それが合意の印であるとしてほしい。もちろん、妊娠を望む上での行為であるなら別だけど、そういう意味合いでない行為については、避妊を前提に描いてほしい。アダルトコンテンツについてそれを求めるのは無理だとは思うから、アダルトコンテンツではないもののなかでは、当たり前の風景として描いてほしい。そのフィクションの世界での当たり前という描写は、現実社会でもじわじわと影響していく、はずだから。
昔の映画やドラマでの路上喫煙シーンが、今の時代ではあり得ないなとなるように、その描写について変化をしていってほしい。
ただもう正直、推しだろうと誰であろうと、全裸で性行為をフィクションで演じさせられ、それを鑑賞させられることは、楽しいものではない。楽しい人もいるんだろうけど、楽しめなかった。
その撮影について合意があろうと、本当にそこまでの描写がなければ完成できないものなのか?と思わずにいられない。その最中のシーンの時間を別のシーンに充てることで補完できることも多いのでは?と思う。だから、そのシーンを入れるならばせめてリアリティーを持たせてほしい。アダルトコンテンツのような過剰な演出ではなく、合意ある行為に対しての啓蒙になるようなシーンに演出してほしい。その自分の気持ちを再確認するような機会になってしまった。