きらきらしたものを集めたい。

主にジャニーズ、たまにアイドル。/絶賛事務所担進行形 → 主にK-POP、たまにジャニーズ、たまーーにアイドルへ移行→主にLDH、そこそこK-POP、たまにジャニーズ、ちょっと坂道に移行したみたい。。

いい映画を見るという行為は疲れる。

窮鼠はチーズの夢を見るを見てきた。

見てからいろんな感情が沸いて沸いて収まりがつかなくてあまり寝られなかった。あまり映画を見る習慣がないのは、こうなるのが疲れるから。数時間のあと数日引きずるくらいに心身が揺れてしまう。

本当に最初から最後まで大伴恭一が腹立たしくて、家で見てたらティッシュ投げちゃうわ!っていう感じ。

一応原作も読んでるんですけど、映画ベースの感想を書きます。ゴリゴリ内容について書きます。なんならすごい熱量で書くからまじで見ようと思ってる人は1行も読まないでほしい。

 

 

大伴恭一という人は、「本当に人のこと好きになったことあります?」って聞かれてもYESともNOとも答えない。彼は自分を求めてくる人に応えているだけで、関係をもつにあたり大きな感情は同情だった。「かわいそう」だから、断れない。

今ヶ瀬が一度家を出て、再び恭一が連絡して会ったとき、仕事で探していた失踪人について「死んでました」と言った。目の前にいる今ヶ瀬が傷ついているのがわかったから元気になるよう喜ぶことをしてあげた。喜ぶ関係をつくってあげた。でも今ヶ瀬が満たされた途端に、岡本さんの秘密を共有することになる。今ヶ瀬のことを考えなきゃいけないタイミングであれば、あの朝のシーンも気がついてなかったかもしれない。

岡本さんが常務の葬儀で傷ついて泣いていたから、秘密を知っている身として、元気になるよう喜ぶことをしてあげた。彼女のお母さんが得られなかった結婚を前提に。でも、岡本さんが満たされていくにつれ、今ヶ瀬を求めだしゲイのお店に出向くまでする。そして、今ヶ瀬は姿を現す。以前よりも捨てられた子犬のような顔をして。

婚約状態でありながら、恭一は今ヶ瀬と関係を戻す。今ヶ瀬は、その恭一の感情が自分に向いている「別れる」と言われた日に去る。自分が満たされなければ、かわいそうなままでいれば、恭一が自分を想ってい続けてくれるから。

恭一自身は「かわいそう」の感情が同情であるという認識はないのかもしれない。それか、同情でもなく「カッコつけ」でしかない。人が自分の働きかけによって満たされていくのを見るのは嬉しそうだった。でもそれは愛でもなく欲でもない。カッコがついているから。でも、人が満たされていくのを見られると嬉しい、の気持ちはわかる。でも恭一を求めている人にとって、相手を求めているわけでもないその行為がどれだけ残酷であるかについて、恭一は最後まで理解しているとは思えなかった。だからこそ腹立たしい。

 

あと、腹立たしさにはもうひとつある。インテリアだ。恭一が独り暮らしをはじめた部屋は、結婚していたときの部屋とは全く違うテイストでしっかりとインテリアを作り込んでいた。そこには、「彼の感性での心地よさ」が表現されていた。今ヶ瀬はそのインテリアに手をつけることはなかったが、ただ灰皿を置いた。主にモノトーンの恭一のインテリアのなかでは少し浮くテイストの黄色い今ヶ瀬の灰皿の存在感。今ヶ瀬の部屋はまた全く違う感性のインテリアだったから、今ヶ瀬の感性は恭一のそれとは違う。でも今ヶ瀬はこれ以上恭一の感性を浸食しなかった。

そして、恭一は今ヶ瀬の家に行ってみたいと言ったことはなく、感性に興味はなかった。後々に今ヶ瀬のセクシャリティーのテリトリーには少し興味を持ったのかもしれない。でも結局そのセクシャリティーに対して抱いたのは吐き気を伴う拒絶感。わたしはあの描写は、「今ヶ瀬じゃなきゃダメ」ということとしては捉えられない。結局今ヶ瀬のセクシャリティーを受け入れられていないようにしか見えなかった。

岡本ちゃんは、付き合いだした途端に恭一の部屋の感性を浸食した。今ヶ瀬の「ダッサいカーテン」という言葉に「だよな」と答える。それが男同士で女のセンスを査定している風景に感じられて後々から腹が立つ。岡本ちゃんの感性をダサいと思っているなら「ダサいよ」と言えばいい。でも言わないことを優しさとしている。優しくいることが、カッコつけでもある。でも自分の感性にそのダサさが浸食してくると途端に居心地が悪くなる。相手が満たされていく状態に対して、自分が満たされなくなるのはそのラインなんだろうと思う。その描かれ方があまりにインテリアで饒舌に作られていた。

今ヶ瀬は恭一の部屋を浸食しなかった。部屋にいるときは恭一の服を着た。でも彼に「部屋引き払えよ」とは言ったけど「服とか必要なもの持ってこいよ」とは言わなかった。結局、今ヶ瀬の感性が浸食してきたら恭一はまた居心地が悪くなるんだろう。どっちかというと、同情よりも映画で主に描かれていたのはこの「感性を浸食されたくない」の部分なのかもしれない。そして、恭一にはその自覚がない。流され侍だと周りも思っているし、自分も思っているけど、誰の感性も受け入れる気がない。流されていても満たされない。気付くまで繰り返すだけ。だから腹が立つ。

 

と、これくらい大伴恭一というキャラクターに対して、感情がわくくらいには入り込んで見れたので、いい映画だったんだろうなと思う。終始、大伴恭一として見ていた。*1

 

行定監督の大倉さんについての言葉で非常に興味深い部分があった。

大倉忠義はすごく良い意味で人間が“わかりにくい”んです。演じる上で造形する人間も、やろうと思えば、もっとわかりやすくできるとは思うんですよ。もっと狼狽したり、もっと逡巡したり……脚本にそう書かれていたら、俳優はオーバーにやりがちですよね。でも、彼はオーバーにはやらないんですよ。演技にどこかに曖昧さがあって、それがすごいリアリティを生んでいる。だから、大倉忠義は自分のアイデンティティをもって原作の恭一を血肉化したと思いますし、大倉忠義のもっているムードがこの映画を形作っていることは間違いないです」*2

たしかにそう。原作の方がもっと、ひとりのシーンでも感情的になっていた印象がある。今ヶ瀬に振り回されてて疲弊していた。映画で疲弊していたのはどちらかといえば、今ヶ瀬や岡本ちゃんだった。わかりやすく、感情的にならないこと、女性の感情(感性)を真っ向から否定したりしないことで、映画の恭一はずっと優しいふりをしてカッコつけてる。カッコつけてるから結局ストレス溜まる。求められたことに応えてあげて、かわいそうな人がいたら同情してあげて、そういう受動的ポーズでカッコをつけすぎて、自分のなかにある能動的な感情が不貞に走る。でもその不貞はあくまで相手に応えているだけ、の体をとる。周りの人間は能動的な行動を引きずり出されて、挙げ句に取り残される。いるいる、そういう奴いるいるいるいる。そう、あの演じ方でリアリティーが生まれてる。

しかし、大倉さんのわかりにくさ、本人も自覚はあるとおもうんだけど、まじで、関ジャニ∞としての彼の仕草も恭一と似てると思うので、まぁほんとよく合う役だったんだろうと思う。

かつて、わたしはブログで大倉さんの演技をお遊戯会って書いたんだけど、今回の大倉さんの演技はそういうモノではなかった。(いやまぁクローバーにムリがあっただけなのでは?と言われたらそうかも…と今は思わなくもないけど。)今回、画力として、大倉さんは引き画に力があるんだなって思った。成田凌くんのアップの表情の画力に対して、立ってる姿、歩いてる姿、浜辺の引き画。表情より全身の方が引力がある。その感じが、ふたりの心のスタンスの違いともよく合っていた。常に誰の心にも近くにアピールしようとする今ヶ瀬と、常に誰の心とも遠くにいる恭一。そういう見せ方を意識した映像作りだったのかもしれない。

 

1回見ただけでこれくらい書き出さないと気がすまないくらいには感想が沸いてきたので、本当にしっかりした映画だなんだろうな。

でもまだ、ひとつ思うことがあり、それは濡れ場についてなので、それはそれで書くと思う。

*1:濡れ場はさすがにふたりとも大変だな……と思ったけど

*2:https://lp.p.pia.jp/shared/cnt-s/cnt-s-11-02_2_92ab8ae8-b5b2-47ee-8979-5dbdba020a75.html